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選奨土木遺産「丸森橋」

「丸森橋」は、戦前に作られたプラットトラス道路橋として、宮城県内で唯一現存している石張りの橋脚が特徴的な橋です。多くの皆様の御尽力により令和4年選奨土木遺産に認定されました。

名称 丸森橋(まるもりばし)
完成 昭和4年(1929年)3月
形式等 橋長:133.6m
形式:鋼中路式単純鈑桁(19.2m)+鋼下路式単純トラス橋2連(57.28m 57.32m)
所在地 宮城県伊具郡舘矢間舘山字巻河原地内
管理者 宮城県

選奨土木遺産とは

土木学会による選奨土木遺産の認定制度は、土木遺産の顕彰を通じて、歴史的土木構造物の保存に資することを目的として平成12年度に創設されました。

認定により以下が期待されます。

社会へのアピール 土木遺産の文化的価値の評価、社会への理解等
土木技術者へのアピール 先輩技術者の仕事への敬意、将来の文化財創出への認識と責任の自覚等の喚起
まちづくりへの活用 土木遺産は、地域の自然や歴史・文化を中心とした地域資産の核となるものであるとの認識の喚起
失われるおそれのある土木遺産の救済 貴重な土木遺産の保護

丸森橋の歴史(渡し・舟橋・木橋・鉄橋)

※文章は「丸森町史」(昭和59年)より引用

(1) 渡し

 藩政時代は、「渡し舟」が人や物資の重要な渡河手段であり、明治になっても、多くの河川で設けられて人々の足となっていた。
 阿武隈川にも、丸森地方には「細内」(丸森)、「神明」(丸森)、「赤ケ崎」(金山)、「長瀬」(耕野、後に兜となる)に一般的な「渡し」があり、小斎には一本杉、中原、新町に渡し舟が置かれて農耕に通う人々の足となっていた。
 中でも、細内、神明の両渡しは、いわゆる隈北、隈南を連結する中心的な渡しとして最も多く利用され、明治20年代(1888年~1897年)からは、県道槻木・中村間が開通されて特に重要度が高まった。

阿武隈川絵図の写真

阿武隈川絵図-安政2年(1855年)4月(複製、まるもりふるさと館蔵)
舘矢間と丸森をつなぐ「渡し」が「細内の渡し」である。舘矢間側の上流部に「姥石」が描かれている。


(2) 舟橋

 しかし、強風雨の日や出水時の欠航は、通行量の増加につれて人々に不便感を募らせ、架橋を訴える声が高まった。
 このため、二瓶廉吉らが中心になって丸森、舘矢間から同志十八人を募り、明治24年(1891年)11月「隈共社」を設立し、現在の丸森橋のやや下流に、17隻の舟を係留してその上に板を渡した長さ96間5分(約175m)の「舟橋」の架橋に乗り出した。この舟橋は、翌25年(1892年)5月に完成した。
 舟橋には「橋守」が置かれ、利用者から「渡料」を徴収した。その料金は、明治39年(1906年)当時で、徒歩が1人8厘、人力車1銭5厘、荷車2銭、牛馬1銭5厘、牛馬車6銭であった。1日の利用者は、徒歩130人、人力車10台、荷車4台、牛馬6頭、牛馬車2台ぐらいであったという。

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(3) 木橋

 せっかく人々が期待を寄せた舟橋であったが、暴れ川阿武隈川は度々舟橋を流出させ、特に明治29年(1896年)8月、35年(1902年)9月、37年(1904年)7月、38年(1905年)の洪水では甚大な被害を受けた。この間、流れの抵抗を少なくするため、両岸から桟橋を延ばし、舟の数を少なくするなど工夫を重ねたが効果がなく、舟橋の限界を知らされた。
 このため木橋に架け替えられるが、これについて碑文に「川様非常ニ変更、以テ舟橋永久ニ保チ難ク、官ニ願ヒ遂ニ全部枠立架橋ト成シ、逢隈橋ト改称ス」とあって、明治38年(1905年)から44年(1911年)の間に、16橋脚の木橋が架けられた。

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(4) 鉄橋

 しかし、木橋も洪水で流失の被害を繰り返すなどして、わずかな渡橋料金では到底維持管理ができない事態となり、結局大正末になって、県道槻木・中村線の橋梁に編入することで県に寄附することになった。
 大正13年(1924年)12月14日に架け替えの意見書が知事に提出され、これを契機に新しい架橋の機運が高まり、県は昭和2年(1927年)、延長131m、幅員5.5mの永久橋の架橋に着手し、同4年(1929年)3月に完成した。この近代的な永久橋は「丸森橋」と名付けられたが、トラスの美しいワーレンス型の橋を、人々は「モダン橋」と呼んだ。

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部署   建設課道路管理班
住所   宮城県伊具郡丸森町字鳥屋120番地
電話番号 0224-72-3030
FAX番号 0224-72-3042